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人間驟雨
先に断っておくが俺が通っているのは男子校だ。
ある雨の日、転校生が現れた。一目惚れした。そいつの名前はイチノエタスクといった。漢字で書くと一之江佐。大阪の大きな家のボンボンだそうだ。
「たこ焼きとかお好み焼きとか毎日食う?」
「アホちゃうか」
「みんなふつうに漫才してるってマジ?」
「ええ加減にしいや」
「うわっ、すげえ」
「……、」
テレビで見る漫才の締めの台詞といっしょだった。イチノエは呆れていた。新しいおもちゃに目を輝かせる犬を見下ろすような視線。
「昼いっしょに食おうよ」
「女子か」
「部活きめた?」
「入らん」
「え、なんで」
ぽんぽんと帰ってくる言葉が楽しくてつい前のめりになる。雨が降っていたけれどその日は気にならなかった。なにしろふたりで下校したのだ、イチノエの傘は深い紺色だった。綺麗で、ひらくとき良い音がした。
「お茶の先生せなあかんねん」
「…お前が?」
「変やろ」
俺は勝手に目の中でイチノエの和装を想像した。
「え、うわ…、似合う似合う!」
「はぁ?」
イチノエは笑っていた。あ、と思った瞬間それは濃紺で隠されてしまった。ああ、と思って塀の蝸牛を目で追った。雨の白さとその同化しそうな茶色の渦。すでにそこはイチノエの仮住まいの外苑、やわらかい生き物が這っているのはその板囲いだった。
「おもんないで」
「ん?」
「退屈で退屈で絶対帰りたい言うっていうてん」
着替えなんかなんで見せなあかんねん、と言われて板張りの縁側に押し出されてしまった。雨が揺らす葉は明るい緑。畳と布地の触れる音が妙だった。
「甘いもん好き?」
背後の白と渋茶の襖を抜けてきた声は軽く、訳もわからずすこしほっとしてしまった。
「嫌い、」
「ほな茶でも飲んどき、」
イチノエのセンセイぶりは見事だった。和装も仕草も申し分なかった。今回は入室を許され、背後でするするという衣擦れの音を聞く。
「お前、意外とよう耐えたな」
「お前茶道部でもつくったら」
「いややわ」
ふと、茶トラのむっくりとした猫が襖の硝子越しに視線を投げてきた。障子の下げ忘れだ。見てはいないものの独占した気になっていた。同時に後ろめたさも感じてしまった。猫とにらみあっているとイチノエにはたかれた。ツッコミだと言うと今度は足が飛んできた。ああ、さっきの情緒はどこへいった先生。
雨は七月下旬になっても降り止まなかった。今日もまたイチノエ邸へ向かう。茶トラに迎えられて板張りの廊下を歩く。誂えられた着物を着せられて茶室へ入る。詳しいことはわからないけれどその所作を眺めているだけで時間が過ぎる。雨が降り続いていることも意識の外だ。
それでもただの襖で区切られた庵で本当の静寂も何もありはしない。また猫が入り込んでくるかもしれないし、陽射しや蝉の声、その季節を終わらせようとするものがこの世界には至る所に漂っている。
「特別やで」
いつもなら言わないような台詞を簡単に口にした。なにかあると思ったら、これだ。
「大阪帰るねん」
そうか、とも言えなかった。夏休みの間にこの家は他人のものになるそうだ。実感が湧かなかった。あの猫も連れて帰るのか、それとも。
「人には言わんといてや、」
お前だけやで。その音はお茶請けに出されてとうとう手がつけられなかった桃色の茶菓子を思い出させた。
「…甘いもんは嫌いだっつったろ」
「アホか」
人肌に触れるにはすこし暑い、まだ梅雨の明けきらないある日。