ぼくらはきっと、夜になく蝉のように呼吸をする。
かつん、と音がした。
パソコンに向かっていた手を止めて立ち上がる。
すこし探る金属音がして、ロックがはずれる。
きぃ。
静かにドアは開いた。
「ただい、…ただい、まー」
どもるように少し途切れた呼吸。
彼の目は暗闇にある。
髪が夏の初めの空気を連れて帰ってきた。
「おかえり、」
声に笑う。僕の気配はやさしいと、かれは笑う。
「羽音が、するね」
「え?」
テレビの音に雑じって、ベランダから。
「…気づかなかった」
「さっきからずっと、」
見えない道を通ってかれは窓に近づく。
ほんとうは見えているんじゃないかと、なじりたくなる事がある。
そのあとすぐに、泣きたくなる。
「…すぐそこだ、」
「……、」
ガラスに手をついて、耳をおしあてる。
斜め後ろから見たその光景。
伏せられたまつげが影をつくって、
口唇がやわらかそうな色にしめっていた。
コンクリートのベランダで、もがく蝉がいた。
正しくは、蝉がいるようだ。
見てはいない。
彼の羽を千切ったのは僕かもしれない。
「…どしたの?」
見えない目で見上げる彼を抱きしめた。
耳もふさいでしまいたかった。
あの羽音は聞いてはいけない。
背中に腕が回った。
「……、」
いつかの暑い暑い夏、
アパートの前に蝉の羽が落ちていた。
透明なような色をしていたと思う。
羽がある、と僕が言うと、
「はね?」
「蝉の」
「……羽だけ?」
悲しかった。
彼もとても悲しそうな顔をしていた。
たぶんふたりが今感じていることはまったく別物なんだろう、
それでも僕はどこまでも後悔した。
言わなければよかった、口に出さなければよかった、
どうせ見えない、言わなければ何も知らずにすんだのに。
「からだ、ない?」
「……っ、」
そして気づいた。
そうじゃない。
そんなことが悲しかったんじゃない。
『どうせ見えなかったのに』
そういう風におもってしまったことが悲しかったんだ。
結局体は見つからなかった。
ないよ、と言うと彼はくるしそうに笑って、
「よかった、」
と口の中でつぶやいた。
その声を思い出して、腕を強めた。
窓になにかがあたるような音が響く。
「どうしたんだろうね、」
「…?」
ぺったりとくっついたまま、瞼を伏せて彼は言う。
「どうしてないてるんだろうね?」
「…、」
羽音が聞こえる。
あの蝉は僕が昼間、洗濯物を干すときに邪険に扱ったあの蝉かもしれない。
窓に羽を挟んだだろうか。
ベランダの手すりに居たってそれだけで、
払いのけられたあの蝉かもしれない。
羽音がする、
暑い、体温があがる、
「泣かないで、いいのにね?」
みじかい夏を謳歌する、かなしいぼくらは必死で抱き合う。
信じられるもの信じないもの、その両方を束ねてひたすらのみこむ。
ぼくら、夏にしんでいく。
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蝉きらいなんです、私。