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ひらく、世界は
最初は博物館。その次は図書館だった。
高校の昼休みである。
反対向きに座った椅子と机のその向こう側に、
いまだにでかい弁当箱をひろげてくつろいだ様子の、日向。
「ひなた、次の日曜日どっか行くの」
なんて可愛くない訊きかた、自分でもわかってるけど。
「観たい映画があるんだけどどう?」
そんなことに懲りずこいつはいつもいつも優しく、笑って。
「……、いいよ、映画ね、」
「じゃあ駅で」
「うん」
予鈴が鳴った。
俺はひとつにこっとしてからがたんと音をたてて立ち上がった。
俺は手なんか振ってやらない。
それに日向はそんなこと気にもしやしないのだ。
この男、とにかくつまらない。
ふたりで出かけることが多くなってからそれに気づいた。
初めてふたりで出かけようということになったとき、
行きたいところがあるからと言われてついていったのが
県立の博物館。
わけのわからない絵画が縦横無尽に展示してあって、
絵を見る趣味なんかまったくない俺は呆然としたのだ。
(あんなもの見てなんになるんだろう)
瓦礫の山に長剣を持った骸骨だとか、
原型を無くすほど歪んだ人間のなれのはて。
首のない男の裸の絵なんか見たってこっち的にはどうしようもない。
(その次は図書館…)
あれは最悪だった、
あのしんと静まり返ったというかぴんとはりつめたような空気感。
人々がみんな下を向いて本に熱中している様子。
図書館どころか活字の本を読む習慣すらない俺には地獄だった。
ふらふらと本の背表紙だけを眺めながら歩いていると、
いつのまにかさらにわけのわからないゾーンへ迷い込んだ。
顔をあげるとあいつがいない。
俺は焦った。
そこへ追い討ちをかけるように携帯の音が鳴り響く。
(あれは気まずいというか)
周囲の人間の視線が刺さる。
あわてて止めると、棚の向こう側から小さな声。
ひなた。
『こんなとこにいたの』
『………、』
俺は驚いた。
そんなにほっとしたような顔して、なんだってんだ。
…ちょっと、嬉しかった。
『よかった、』
『…、』
だから、頭なんか撫でられたってそのままにしといてやったんだ。
恥ずかしかったんだからな!
(…いや、そうじゃないだろ)
駅前で待ち合わせて映画館に行くまでの間、
なんだか過去の回想をしてしまった。
隣に並んで歩く日向は、すこしも喋らないで、
それでも嬉しいですという雰囲気を身体中から発している。
駅で顔を見ていちど笑い、
なに観るのと訊くとないしょ、といってまた笑った。
そのときの顔ったら、ないのだ。
(はずかしいやつめ)
それを見てちょっと笑いそうになっている自分もないしょ、
なんだけど。
映画は、…つまらなかったといいたいところだが。
(く、暗!)
人影のまばらすぎる館内でカーテンが上がったときには
こんな内容だとは思いもしなかった。
途中まではほかのことを考える余裕もあった。
音楽が軽快で画面も明るい。
正直(こいつのことをよく知らない俺でも)なんでこれを選んだのか
不思議に思うくらいの外国映画だった。
それがあれよあれよとあらゆる不幸が主人公に降りかかる。
視力が衰え、息子のために貯めていた金を盗られ。
強要されて隣のおじさんをピストルで撃つところなんかは
思わずちらりと隣の席に座るやつの様子を窺ってしまった。
(なにこれ)
(なんかこわい)
主人公は裁判にかけられて死刑判決をうけてしまう。
そのあたりで俺はすでにハンカチを探していた。
胸と鼻の奥がぐっとなってしまって、どうにもならなかったのだ。
映画が暗闇の中でみるもので本当によかった。
俺はこいつにどうしても泣き顔なんか見られたくなかったから。
(どうしよう)
ハンカチはなかった。
普段から粗雑な身なりをしているせいでこんな事態だ。
(どうしよ、う?)
手のひらにやわらかいものが触れた。
と、隣からさしだされたハンカチ、日向の。
「……、」
知られた、と思ったけどしかたなかった。
せめて音だけは立てないようにとそのハンカチでそっと拭った。
主人公は独房で歌う、
絞首刑を目の前にして、107段の階段を踊るようにあるいていく。
(なにこれ、こんなのやだし)
主人公の覚悟とか世の中の規則のどうしようもなさとか、
そういうものにぶつかってしまって俺は泣きつづけた。
どうしようもないことだらけの世の中だと思っていたのに、
なんだかそれを許したくなかった。
なんでこんなもの見せた、終わったらそう言ってやろうと思った。
でも。
「…、」
思わず隣を見てしまった。
あったかい手のひらが触れたのだ。
俺の手に。
日向はまっすぐに前を見ていた。
(あ、…くび、)
最後の最後まで主人公はたすかるんじゃないかと思っていた。
だから、その瞬間は見られなかった。
「…!」
ぎゅっと包まれた手のひらのことだけを、考えていた。
「ひとが死んだり生きたりすることに興味があるんだ」
日向は映画の後の喫茶店でそう言った。
そう言えば自分は彼のそんなことも知らなかった。
読む本のタイトルも観る絵の趣向も気にしたことはなかったのだ。
「…だからってあれは」
「悪かったな、」
泣かせちゃって。
日向はやわらかく笑っていた。
「…うるせぇよ」
「うん、ごめん、」
どうしても観てみたかった映画だった、と日向は言う。
いっしょに観てくれてありがとう。
パンフレットを眺めながら、そう静かに言って目を伏せて笑った。
それを見ていると、心の中でかたりと何かが位置をかえる。
「…いいよ、」
「え?」
「お前の好きなとこでいいよ、別に」
「…、」
飲み込んだカフェラテが、甘い。
「俺に合わせたら買い物とかカラオケとか」
「…カラオケかあ」
「そんなんばっかりになるし」
「したことないなあ」
「ええっ、」
「そんなに珍しい?」
「いや……」
そっか。そういうやつだっているんだよな。
俺が博物館とか図書館とか行かなくて、
日向が観たがってたああいう映画とか観ないみたいに。
「…じゃあ次はカラオケで」
「音痴だけどいい?」
「いいよ」
「声甘いけどいい?」
「あはは、なにそれ!」
そうやって知ってくことが、大事なのかもしれなくて。
その次の週末、とあるカラオケボックスで腹を抱えて
爆笑することになろうとは。
「ちょ、あはは! すげえ!」
「そんなにおかしい?」
「マジお前声甘くね!? 異様に! なんで!」
「…次はボートの上で読書にしようかな…」
僕らの世界はそうやって、いつもずっと果てしないのだ。